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2019年12月

幾つになっても♪

 任意後見契約を結んでいる女性と忘年会でした。

 10年以上前に、その方が有料老人ホームに入所するのをきっかけに、任意後見契約と見守り契約を締結していて、それ以来、年に4回お目にかかり続けています。そうです、判断能力の衰えは全くないので、見守り契約を遂行中なのです。

 ホームの食堂に隣接する「特別室」の大きなテーブルで二人並んで座り、特別食をいただきました。向かい合わせに座ると、耳がかなり遠くなっておられるので会話が成立しないのです。

 「先生、わたし若く見えます?」

 「はい」ちょうど年齢相応だと思うけど(失礼!)、ニコニコ笑いながらお答えします。

 「そうですか、もう92なんですけどね。そう言われたんですわ。看護婦さんに」

 「嬉しかったんですね?」

 「そら、嬉しいですわ」ニコニコ

 そっかー、わたしもそんなこと言われたら嬉しいしな。もしかしたら年を重ねた方が嬉しいかも。こんな会話を楽しめるのが、後見事務の醍醐味です。いつも心を開いて話してくださるので、この方の考え方の傾向はかなり分かっているつもりです。耳が遠くなったことで、人との意思疎通が難しくなったことを嘆いておられたので、「耳が遠いので、大きな声で、ゆっくりと、お話しいただけませんか」というカードを作ることになりました。

 ところで、今日の忘年会のお食事代は、ホームの利用料として請求されますので、わたしはご馳走になってしまいます。依頼者から、報酬以外に利益を受けるのは、本来は問題です。けれども、こうしたお食事はギリギリセーフではないかと考えています。共に食事をしながらリラックスして過ごす時間で、相互理解を深めることができるからなんですが、そのための費用だと捉えれば、依頼者負担という理屈も成り立つのではないでしょうか。但し、その理屈を逆手に取って、こちらから高級な食事を要求したりするとすればもちろん論外ですが。

 あるいは、コミュニケーションの一環として、わたしからは、お誕生日にお花を贈っているので、これがお返しという説明も可能かも知れません。

 いずれにせよ、あまりに杓子定規なことを言っても、お相手はお年寄りなのでなかなか理解はされないし、自分なりの倫理観をしっかりと持って対処すればよいと、今のところ思っています。「感情移入し過ぎてはいけない」との理由で、訪問時にお茶すら飲まない、という人もいるそうなのですが、わたしは「感情移入せんで、どないする」と思っています。ご本人の苦悩を背負いこみ過ぎて、こちらが潰れるような感情移入は止めといた方がいいですが。でも、若いと言われて嬉しい気持ちに共感するのは、食事という媒体がなくても可能かも知れないし、まだまだ考え続けましょう。

キャッシュレス時代

 先日、同業者の忘年会で、若い女性が「ペイペイを使わない理由が分からない」と言ってました。

 そうなの?一応「Edy」と「PiTaPa」は持っているのですが、意外に使えるところが少なくて、結局現金を出すことがしばしば。

 そんなに使い勝手がいいなら、「老いては子に従え」と言いますから、子はいないので若い人の言うこと聞いておこうかしら。

 さて、キャッシュレス支払いが普及すると、成年後見事務の在り方にも影響があるのでは?と言われています。ご本人自身がお金を使う場合に、キャッシュレスで支払いたい、という要請もあるでしょうし。チャージ式の場合に、後見人がチャージして、ご本人が使える予算を守ってもらう、ということは可能そうです。お金を渡すと計画性なくすぐに使ってしまわれるようなご本人には、何度にも分けて渡したいけど、渡しに行くのも大変!ということがありますが、そんなケースで威力を発揮しそう。

 けれど、クレジットカードのように後払いの場合には、上限額まで使えてしまうので、使用金額をコントロールする必要がある事案では適さないですね。

 若い被保佐人が、インターネットでコンサートチケットの決済をするのにクレジットカードが必要だと言うので、保佐人として、クレジットカード契約に同意したことがあります。資力を考慮し、最低限の上限額とすることを、ご本人と話しました。買いたいのはコンサートチケットだけなので、数万円程度使えれば十分とのことで、素直に了解してくれましたが。

 新しいサービスをどのように工夫して後見事務に生かすのか、まだこれからの課題です。

 

冬の公園

 公園の 枯葉踏みしめ 友想う

 久しぶりに大阪城公園に行ってみたら、インバウンドの人たちが小金を落とす仕掛けが増えているように思いました。

 西の丸庭園の中はイルミネーションが楽しめるイベント。大人1500円って、結構な金額です。日本人は入らないでしょう。ここは大阪市が所有しているそうです。

 暢気な音楽を流しながら走るトレインも、短くなったはいいけど数が増えたみたい。なんだか趣きは減る一方です。どう逆立ちしても遊園地にはなれないんだから、歴史を感じられる空間としてだけ存在するのでいいじゃないか、と思いますよね。でっかい石垣を眺めているだけで、楽しいではないですか。

 ここ数年のゴールデンウィークは、独身友達と芝生でワインピクニックを楽しむのを恒例にしていました。「外で食べたら美味しいね」が彼女の口癖。温泉地でのバーベキューの時もそう言っていたなぁ。山の辺の道のハイキングのおにぎりでも。もう聞けない。

後見人と火葬

 後見業務好きの司法書士の勉強会の忘年会でのこと(長ったらしい?)。

 一人の先輩が、最近ご本人が亡くなることが続いたそうで、それもご親族がおられず、成り行きで(事務管理として)火葬まで行った時に、出棺からお骨上げまでの時間、大抵2時間くらいでしょうか、葬儀業者と話しこんだそうなのです。後見人が葬儀を手配するケースを多く経験している業者さんだったそうで、司法書士の実名入りで色々と語られたとか。そこで、手配だけはするが葬儀に参列することがない後見人もいれば、いつも来てくれる後見人もいて、「人によって違うんですね」と意外そうに言っていたという話題になりました。

 成年後見制度は、判断能力が不十分な人の権利を擁護するための仕組みですから、その人が生きている間に効果があります。亡くなってしまったら、権利自体が相続人に承継されることになるわけです。けれど、現実には、ご遺体の引取・火葬や、最後の入院費の支払いなど、死亡直後に誰かが対処しなくてはならないことを、相続人が現れるまで待っているわけにはいかず、元後見人が行うことが容認されています。

 そのような立場で、謂わばやむを得ず火葬の手配をする元後見人が、さて斎場に駆け付けるべきかと言えば、当然そうは言えないでしょう。電話一本で手配し、後日の支払いだけをするからと言って(葬儀会社さんがそれで構わないのであれば)、非難されることはないと思います。わたしもこれまで、出棺は立ち会うけれど、骨上げは斎場にお任せしたことがあります。

 けれど、後見人として生前に関わってきた以上、火葬まで見届けるのが人の道という考えもありました。確かに心情的に、これまでこちらを頼ってくれていた方が、誰にも見送られずに骨になってしまうのは忍びなく思います。そういう意味で、いつも火葬は手配だけであとは業者に任せっきり、という司法書士は、それ自体は職務怠慢ではないけれど、存命中の後見事務そのものにどの程度ご本人への配慮がなされているのだろう、という気もします。

 人によって「最善の後見事務」に差がある以上、死後の関わり方が異なるのは至極当然なのでしょうね。

師走、再び

 また12月1日がやって来ました。前回の師走が、ついこの前のような気がします。

 表現したいことがあってもそれを示す言葉を思い出せなかったり、あまりに月日の経過が早く感じたり、ちょっと頭の働き具合に懸念を感じるこの頃です・・・

 「人生会議」をPRする厚労省のポスターが回収されたそうです。表現がふざけている、と感じた患者団体からの抗議に対応したようです。

 リーガルサポートの事業で「判断能力が不十分な人の医療行為の同意」に関して検討したことがあります(https://www.legal-support.or.jp/akamon_regal_support/static/page/main/pdf/act/index_pdf10_02.pdf )。その際の結論の一つは、できれば、自分自身で医療についての希望を述べられないときに備えて、「万が一のとき」のことを家族らと話し合っておき、さらには書面など記録に残しておくのがよい、というものです。

 その考え方に沿えば、「人生会議」という提案はとても納得のいくものです。そして、小籔一豊さんの困惑と怒りが混じったような表情とコピーは、うまくその重要性を伝えているようには思いました。今、元気いっぱいで「死」とは無縁と感じている人には、笑いを含んだこうした手法は訴求力があるのではないでしょうか。

 ご自身があるいはご家族が、今わの際に直面している人も大勢いることと思います。その方々が、「万が一のときの話をしておけばよかったなぁ」と思っておられるなら、そんなこと考えたこともない、という人に訴えかけるPRは許されるように思うんですが、違いますかねぇ。

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