大阪市の市民後見人バンク登録者の方たちには、連絡会というのがあって、その総会と懇親会に参加してきました。
「教え子」という表現は僭越になってしまいますが、講義や相談などで接してきた市民後見人の皆さんと、お酒を酌み交わしながらざっくばらんにお話しできて、とても楽しい一時でした。
大阪市の市民後見人は「報酬を前提としない」というところに大きな特徴があります。その方針は果たして貫けるのか、事業の継続性の点で問題はないか、ということは度々、他から受ける質問です。身近で見ているわたしとしては、その点を見計らう一つの事象として、一度後見業務を経験した方が、もう一度引き受けても良いと考えられるかどうか、「もうコリゴリです」と思われるかどうか、があると思っており、その場でも何人もの方にお尋ねしました。
結果としては、皆さん「もう一度機会があればやりたい」というお答えでした。もちろん、「もうコリゴリ」と思った方はそのような席へも来られないでしょうから、経験者全員が全員というわけではないと思います。が、大阪市のこの特徴は、決して無理のあることではないのだと確信しました。
お話を聞いていて特に頭が下がったのは、多くの方が「後見人をすることで、自分が成長できた」「本当にわたしが後見人で良かったのか、ご本人のためになったのか、ということを自問自答する」「わたしが後見人を務められたのは、センターの職員や専門職の先生たちのおかげ」と口々に仰ったことです。なんて、謙虚な言葉なのだろうと思いませんか。
職員も、私たち専門職も、きちんとフィーを得てその役割を果たしているのです。この市民後見人の皆さんは、何の義務もないのに、自ら大きな重責を無報酬で引き受けておられます。周りで活動支援する立場の皆が、それぞれ熱い思いを持っているのは確かですが、それでも、この市民後見人の真似はそう簡単にはできないと思います。本当に、この人たちがしていることはすごいことなのに、そんな自負よりも、被後見人のことを気遣い、謙虚に自らを振り返っておられます。
お酒のせいもあるかも知れませんが、目が潤むのを感じて、急いで気を逸らさなくてはなりませんでした。こうした価値ある事業に深く関与する機会を得られて、本当に幸運だったと振り返って思っています。
報酬付与を受けている市民後見人の方と接したことがないので、この報酬面でのスタイルの違いが、市民後見人の姿で差が生じるものかどうかは分かりません。全く変わらない可能性もあるし、多少違うかも知れないし、とても関心があります。